神社参拝と御朱印を巡る・東京から電車の女子旅

静かなブームになっている「御朱印」。東京近郊の神社仏閣を訪ね、拝受した御朱印のご紹介と総合運、恋愛運、金運、仕事運、学業成就など、ご神徳・ご利益の情報をたくさん紹介していきます。

多くの海事関係者が参拝する【虎ノ門・金刀比羅宮】/東京都港区(虎ノ門)

こんばんは。
江戸時代、伊勢神宮の参拝に次ぐ庶民の憧れ、「こんぴらさん」で馴染深い
「虎ノ門・金刀比羅宮/とらのもん・ことひらぐう」をご紹介します。

都内にある虎ノ門・霞が関のオフォスエリアに佇む―近代的な造りの神社。
個人的には馴染んでいるなという印象を抱きました。

東京で金刀比羅宮と聞くと、「虎ノ門・金刀比羅宮」は圧倒的な知名度を誇っていますが
東京分社は水道橋にある「金刀比羅宮・東京分社」になります。

金刀比羅宮と聞くとやはりご祭神である「崇徳天皇/すとくてんのう」を語らずにはいられません。

▼社紋である、○に金で金運アップも!と言われていますが、どうなんでしょうか?
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目次

ご由緒・御由緒

当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和(きょうごくたかかず)が、
その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった
芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)
に遷座致しました。

爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により
事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。

万治三年(1660年)は江戸時代(徳川幕府)、第4代将軍「徳川家綱」の時代になります。
わずか11歳で将軍家を継承し、大老、老中など名臣たちの補佐により約29年の安定政権だった時代ですね。

爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月10日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。

▼「江戸名勝図会」歌川広重が描いたもので、金毘羅大権現の白いのぼりがある横に行列をなしている大盛況の様子です。
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ご祭神/御祭神

・大物主神/おおものぬしのかみ
・崇徳天皇/すとくてんのう

御神徳/ご利益

ご祭神から考察すると、金運UPのご神徳(ご利益)は見当たりませんでした。
ご祭神から推測すると以下と思われます。

・海陸安穏
・五穀豊穣
・万民太平

御朱印

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境内に入り、左手にある社務所で頂きました。
初穂料は300円でした。

境内案内

手舎水

▼手舎水もセンターの近代的なつくりになっていました。
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拝殿

▼バックのビルがなければ普通の神社にも見えます。
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結神社/むすびじんじゃ

▼拝殿の右手に2つの社がに鎮座していますが1つが「結神社」
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江戸時代の良縁祈願を現代に再現

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▼江戸時代、良縁祈願に訪れた女性たちは、この結神社の前で自らの黒髪を一部切り取り、
社殿の格子や周りの木々にそれらを結わい付け良縁を願ったと言われています。
社務所で良縁祈願(800円)を授与頂き、「結神社」にて参拝後、良縁を願い、赤い紐を結ぶ
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【※補足】公式サイトにもありますが、縁起は定かではなく御祭神も不明です。

喜代住稲荷神社

▼近隣のビジネスパーソンのお目当ては「喜代住稲荷神社」に
参拝する方が多いのですが、実はこちらの御祭神も不明です。
稲荷神社になるので、「倉稲魂命」ですかね?
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金刀比羅宮の東京分社は水道橋になりますが、
虎ノ門・金刀比羅宮は独自で開拓している雰囲気があります。
江戸時代後期には、「うちわ」を作り、香川の金刀比羅宮参道で「うちわ」を
参拝記念として販売し、財政に充てたと言われていますし、
虎ノ門・金刀比羅宮の社務所が入っているビルは「虎ノ門琴平タワー」
という高層ビルの家賃収入のほか、「結神社」の良縁祈願も「虎ノ門・金刀比羅宮」
の粋な計らいだなと感じます。

最大の怨霊・崇徳天皇

崇徳天皇は日本三大怨霊の一人と言われています。

実父の鳥羽天皇(鳥羽法皇)は崇徳天皇が実子ではなく、鳥羽天皇の父の白河天皇、
崇徳天皇から見れば祖父の子供だとずっと思っていた様子。
当時はDNA鑑定がないので真意は不明ですがー
白河天皇も崇徳天皇を可愛がっていたので、鳥羽天皇は鳥羽天皇で虐げられていたように
感じていたのかもしれません。

平安時代版の「華麗なる一族」のようです。

崇徳天皇は実父から罠にしか掛けられ、天皇の座を弟に譲位し政治の世界から離れました。
鳥羽天皇が崩御するので、駆けつけるのですが遺言で「崇徳には自分の死に顔を見せるな」
と言われており、中に入ることができず蚊帳の外。

また、弟である、「後白河天皇」VS「崇徳天皇」の関係が出来後白河天皇側からしかけられ
「保元の乱」が起き、崇徳天皇は敗れ、讃岐の直島という無人島に流刑になりました。

嘆き暮らしているなか「五部大乗経」という経本を書写して、
今は亡き鳥羽法皇の御陵に奉納することを思いつき、
完成させ朝廷に送るのですが、後白河天皇の側近から呪詛がかかっているのではないかと
思われ突き返され、この仕打ちに崇徳上皇は激しく怒り、
自ら舌を噛み切って流れ出た血を墨に混ぜて送り返された五部大乗経に

「願わくば、日本国の大魔縁となって、皇を取って民とし民を皇となさん」
(大魔王となって、天皇を平民に落とし、平民を天皇のような地位としてやろう)

書いたと言われています。
崇徳天皇、天狗説はここから始まるのですが割愛します。
崇徳天皇は死後も長い期間京都に戻れず、京都に戻れたのは明治時代なんです。
何とも悲しいことです。

「華麗なる一族」と同じで崇徳天皇からはしかけていないのに、勝手に身内・家族から虐げれた。
身内・家族というのは唯一の見方だと思うんですよね。
「怨霊だ!」と周りが思うには「そう思うようなことをしたという事実がある」んですよね。

三大怨霊は平安時代に生きた3人ですが、「権力欲」「嫉妬」「妬み」が渦巻いている
人間の「欲」は現在でもありますが、「欲」を抑えるのも人間です。
単に、「怖い」ではなく、伝説をどう思い、感じ、自分ならと考えることも大事だなと思います。

そしてご神徳でもある通り、自分だけではなく本当の意味での「万民太平」になりたいですね。

アクセス

▼とても参拝しやすい場所、江戸城の裏鬼門の位置にあたる
「虎ノ門駅」、「霞が関駅」いずれも徒歩圏内の距離です。

鎮座地:東京都港区虎ノ門1-2-7
最寄駅:銀座線 虎ノ門駅 2番出口 徒歩1分
    丸ノ内線/千代田線/日比谷線 霞ケ関駅 A13番出口 徒歩5分

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